菅山寺縁起
開山当初は龍頭山大箕寺と称したそうです。
近江の北の、美しい森の中に
開山当初は龍頭山大箕寺と称したそうです。
余呉湖畔で生まれ、この境内で学ばれました。
菅公お手植えの大ケヤキ、水の枯れない朱雀池は必見。
寺院内の宝物の多くは、里坊弘善館に降ろされています。
陰明門院のご子息・白子皇子と山奥の村のお話。
菅山寺境内の簡単な地図です。どうぞご活用ください。
余呉の坂口集落、木之本の大見集落からの参拝道をはじめ、主に4本の登山道が伸びています。ウッディパル余呉からは中腹まで赤子山林道が延びており、車の助けを借りて境内に近づくことができます。
この最も歩く距離の少ないルートでも20-30分、その他のルートは60-120分、と時間の差はありますが、いずれも「徒歩」でしか境内に入ることはできません。
ご自身の体力や天候などと相談し、安全にご参拝ください。
JR木ノ本駅もしくはJR余呉駅から余呉バスで「坂口」バス停下車。集落内の近江天満宮の「鳥居」が参道入口の目印。
JR木ノ本駅から湖国バスで川合バス停下車、高時川沿いに徒歩約40分、大見いこいの広場看板を目印に、大見橋を渡り右折でコース入口に。
JR木ノ本駅もしくはJR余呉駅から余呉バスで「ウッディパル」バス停下車。ウッディパル余呉から伸びる林道を歩く。林道終点までは乗用車でも上がれる。
木之本駅から東へ向かったところにある、意富布良(おほふら)神社横から田上山を経由して登ることができる。
もっともお手軽なルートは、菅山寺北側から延びている「赤子山林道」を車 で上がり、終点の駐車場から歩いて菅山寺に向かうコース。歩行時間に20分、境内の散策に30−60分を見ておけば一通りめぐることができます。
ただし、車 で林道を通る場合、道が細く対向できない箇所もあります。また、アスファルトがめくれていたり枝が飛び出していたりと管理が行き届いていない箇所もございます。もちろん、積雪の多い冬場はこの林道は閉鎖されます。気をつけてください。
坂口を通る正式な参道入り口には菅山寺の仏像や宝物を保管・展示する弘善館があります。観音コンシェルジュを通じて管理者への予約連絡が必要です。
また、菅山寺再興の祖・専暁上人ゆかりの大見ルート入り口には、その専暁上人が興したとされる医王寺があります。現在(2024年4月)、拝観は一時休止中ですが、詳しくはこちらでご確認ください。
菅山寺は、地元の坂口自治会および菅山寺保存会によって管理されています。
「菅山寺の森 友の会」は、寺域に広がる森に焦点をしぼり、この森を知り、学び、整える活動を行っています。
大祭は春(4月25日)と秋(9月25日)の年2回、地元坂口自治会と菅山寺保存会によって執り行われます。
山中の境内には電気も通じておらず徒歩でしか行けないこともあり、近年現地で行うのは難しくなってきたため、現在はふもとの積善館(余呉町坂口区コミュニティセンター)にて執り行われています。
寺社の宝物類を納めた『弘善館』は予約に応じて開館しています。予約は「観音コンシェルジュ(観音の里歴史民俗資料館)(TEL: 0749-85-2273)」を通じて行っています。拝観料はおひとり500円。
また、御朱印などご入用の方は、登山道入り口にあるウッディパル余呉や大見いこいの広場でも扱っています。
「菅山寺の森 友の会」では、森を整え、歴史を学び、「荒れている」と表現されがちなこの寺域の素晴らしさ・心地よさを少しでも多くの方に感じていただけるよう、有志にて活動しています。
おおむね、月一回の活動を行っています。会の活動にご興味のある方は、お気軽にお問い合わせください。
また、フェイスブックページにて、詳しい案内を発信しております。
飛鳥時代
665年頃 孝徳天皇、勅使を遣わし検分される。
奈良時代
764年(天平寶字8年)46代孝謙天皇の勅命を受けて、照檀上人が不動明王を安置し、「龍頭山 大箕寺(※)」を開山。当時は興福寺門法相宗であったと伝わる。
平安時代
850年(嘉祥三年)、幼き菅原道真が当山に入り長老尊元和尚に師事し、855年(斉衡二年)、11歳で下山。菅原是善卿に伴われ京に上る。
889年(寛平元年)菅原道真45歳の時、勅使として再び当山に入り3院49坊を建立し、本尊不動明王のほか五智如来、無量寿如来を安置し、寺号を「大箕山菅山寺」と改め中興す。
鎌倉時代
1243年(寛元元年)後嵯峨天皇の皇妃陰明門院が仏道に帰依し、当山にて大乗経の写経や詩歌を詠じ日々を過ごされたが、この年の9月に生涯を閉じられた。
1264年(文永二年)、当山の大僧都専暁が仏道修行のため、遠く中国へ渡る。
1275年(建治元年)、専暁が中国より宋版一切経典7000余巻を携えて帰山する。
1277年(建治三年)5月8日、一山宗徒より梵鐘寄進(現・国指定重要文化財)。
安土桃山時代
1582年(天正十年)、湖北地方大地震により甚大な被害を受ける。
1597年(慶長二年)、石田三成より30石の寄進を受ける。
江戸時代
1614年(慶長十九年)、徳川家康の強き要望により、専暁上人が中国より持ち帰った一切経5,714巻を江戸の芝増上寺に渡す。その代償として家康より50石の寺領を与えられる。増上寺には現在菅山寺経典として保管され、国の重要文化財の指定を受けて寺宝となっている。
江戸時代末期より末寺他宗に転宗して菅山寺の維持が困難となり、彦根寺社役人に救済を願い出る。
明治時代
寺領国有化し、菅山寺は次第に衰微し坊舎次第に影を絶ち、僧は下山し名刹は虚しく荒廃。
大正-昭和時代
大正元年 菅山寺保勝会を組織され、残る堂宇の回収保存計画成る。
昭和五年 近江天満宮の拝殿改築落成。
昭和五一年 菅山寺保存会結成。菅山寺への一般の関心、信仰が再び高まりをみせる。
昭和五三年 保健保全林に指定される。
菅原道真公にまつわる伝説は日本各所にありますが、当寺の伝説は余呉湖の天女伝説とあいまって味わい深いものとして知られています。
寺伝によれば、道真公は幼名を陰陽丸といい、余呉湖畔に住んでいた桐畑太夫が余呉湖で水浴びをしていた美しい天女を見初め夫婦となり、その彼らの子として生まれた、と伝えられています。
彼が6歳の時、菅山寺長老・信寂坊尊元阿闍梨のもとへ勉学修行のために入りました。5年後の斉衡2年(855年)京都より陰陽丸の叔父・菅原是善卿がこの地を訪れ、桐畑太夫と尊元和尚と是善卿とで相談の上、非凡の才能を国のために役立たせるため、是善卿の養子として京へ上がらせることになりました。京で活躍し、太宰府へというその後の話は皆の知るところです。
学問の神として崇められる菅原道真を祀る天満宮は全国に多々ありますが、ここ近江天満宮は道真幼少勉学の地であり、また右大臣として菅山寺を復興した縁の地として、近年合格祈願に訪れる人達が増えています。
また、道真公が寺を再興されたことが銘文として鋳込まれた建治三(1277)年鋳造の「銅鐘」は国の重要文化財に指定されています。
山門のケヤキ 山門の両脇に2本そびえ立ち、ゴツゴツとしたその姿はまるで仁王像のよう。菅公お手植えと言われ、樹齢1,100年を越えると言われている。県の名木に指定。2017年9月、夏のいくつかの強風に揺らされ続けた結果、かねてより弱っていた片側の1本が、残念ながら倒れてしまった。
巨木 上記のケヤキのほか、イチョウ、コウヤマキ、アカガシ、モミ、トチなどの各種巨木が見られる。
朱雀池 いかなる干天にも水は枯れること無くこんこんと湧き出る。かつて居住していた僧たちの生活を維持できたのは、この池の水があればこそ、と言えよう。池の中にはヒシの自生やモリアオガエルが生息している。
ブナ・ミズナラ混成林 標高が500mにも満たない山中にも関わらず、ブナ林がある。上記の朱雀池の水が枯れないのは、このブナ林の高い保水力のおかげかもしれない。ブナは菅山寺境内に特異的に分布しており、かつて連続していたブナ林がこの地のみに残ったのか、はたまた人為的な植栽によるものか、議論が分かれる。
竹林 山上には珍しい竹林がある。
野鳥 菅山寺には珍しい野鳥が多く、愛好家たちも足繁く訪れている。アカショウビン、ハイタカ、ブッポウソウ、オオアカゲラ、コマドリ、コガラ、イスカ、サンコウチョウ、ホトトギスなど、70余種にのぼる。
本堂 建造年度は定かではないが、天正十年の地震後すぐに建造または改築されたものと思われる。
護摩堂 護摩には供物札木を焼く「外護摩」と自身を壇として如来の智火で煩悩の薪を焼く「内護摩」があり、ここは内護摩が行われるところ。
近江天満宮 菅公の死後、彼の修行の地として建立(955年)。現在の社殿は昭和五年に改築。
銅鐘 国の重要文化財。建治三年、大工丹治国則の銘がある。ふもとの弘善館にて管理。
経堂 専暁が宋より持ち帰った一切経七千余巻が収められていた。輪蔵とも呼ばれる回転式の経典庫がある。
五所権現 阿弥陀、釈迦、正観音、地蔵、十一面観音の権現を祀っていた。
献燈籠 本堂前、石段下左にあり、鎌倉時代の作で、六角形の元興寺型燈籠。
宝篋印塔 陰明門院ならびに白子王子の墓
弁天堂 弁財天女を祀る
宝蔵庫 平安時代より鎌倉時代にかけての多数の宝物が収蔵されていた
無住の寺であり火災や盗難による消失を防ぐため、仏像や銅鐘、宝蔵庫などに収められていた宝物類は、現在すべて麓の「弘善館」にて保管・展示されている。
菅山寺は山中の無住の寺であり火災や盗難による消失を防ぐため、仏像や銅鐘、宝蔵庫などに収められていた宝物類は、現在すべてここ「弘善館」にて保管・展示されている。
銅鐘 銘文に1277年、鋳物師・丹治国則によって制作されたとされる、高さ127.6cm、口径69.7cm、重量356kgの釣り鐘。国の重要文化財に指定されている。
本尊・木造不動明王坐像 平安時代中期、長浜市指定文化財。菅山寺縁起によれば、建築を司るインドの神・毘首羯磨(びしゅかつま)の作とされる。
木心乾漆十一面観音立像 平安時代初期、長浜市指定文化財。像背面墨書銘と台座裏墨書銘によれば、この像は寛政13年(1801年)に天神900年忌を記念して、彦根藩家老職木全土佐守前とその母により寄進されたもの。天神の本地仏とされる。制作は8世紀末に遡る可能性のある、県内でも珍しい木心乾漆像。
木造菅原道真十一歳像 江戸時代の作。
菅山寺の東を流れる丹生川(高時川)。その上流部に小原(おはら)というムラがありました。その地だけに伝わるかご作りのお話。
時は鎌倉、今から800年も昔のこと。
小原の地に京からひとりの皇子が供を連れてやってきて、丹生川沿いの河原に住まいを定めました。住まわれどもなかなか姿を見せないこの皇子でしたが、高貴な立場であることは周りの者の働きからうかがい知ることができました。
実はこの皇子、全身が透き通るくらいに白かったのです。そのような事情もあって、京の都から隠れるようにやってきたのでした。けれどもしばらくするうちに、心優しい小原の村の者と皇子は心を通わせるようになり、いつしか「白子皇子」と呼ばれるようになりました。
白子皇子は手先が器用で、イタヤカエデの木を剥いで木カゴを作る技を生み出し、会得しました。そのカゴはたいそう丈夫で、様々な暮らしの道具として重宝されるようになりました。白子皇子は惜しみなくこの技を村の者たちに伝え、そして短い生涯を閉じたということです。
白子皇子の亡骸は菅山寺に埋葬され、また、生みの親である陰明門院も菅山寺にて仏門に入られたのち、白子皇子の墓の横で眠りにつきました。今でも2つのお墓は、静かに並んで立っています。
また、皇子の残したそのカゴの技は小原集落に受け継がれ「小原かご」として知られるようになりました。現在はただ1人の継承者によって守られています。
菅山寺境内の概略図です。画像をクリックすると、PDFがダウンロードできます。
登山ルートの描かれた広域の地図は、「奥びわ湖の観光情報」内の 菅山寺の紹介ページ からダウンロードできます。